「人」と「場」をつなぐコミュニティメディア『はにふみ』の編集長、ミフミが、「場」の取材を通して感じたことを徒然なるままに綴ります。
episode.1 We are
「コミュニティ」がわからなかった。
僕は本業として「広告」の業界に身を置いている。すると、しばしば「コミュニティづくり」というワードが出てくることがあった。時に、お菓子メーカーのファン育成のためのプロモーションとして。時に、不動産ディベロッパーが、家を売るための販促施策として。
「自走するコミュニティが豊かな街を…」
プロモーションの文脈でコミュニティを語る時、それは大体企業側に都合のいい美辞麗句に聞こえた。だから、なんなら「コミュニティ」という言葉がちょっと嫌いだった。
人はもっと自発的に繋がりを持って、自発的に心を通わせるものではなかったか。そう思うと、コミュニティという言葉の本質がわからなくなっていった。
コミュニティと、出会って。
コミュニティに対する見方が変わったきっかけは、転職だった。新卒で入った会社を辞め、2社目に入社したのは、あるシェアオフィスの中に入居する制作会社。そこは、世界中に拠点を持つ大手のシェアオフィスで、夕方以降ビールが飲み放題だ。(いや、そこにアルコールがあったかどうかは、今思うと重要ではなかったのかもしれないけど)ともかく夕方になると誰からともなく、会社の垣根を超えた“飲み会”が始まり、新参者の僕もすぐに受け入れてくれた。
結局そこも1年以内に離れることになるのだけれど、そこでの温かい日々を思い出すと、今でもじんわり胸が熱くなる。
紛れもなくコミュニティだった。
それも、「シェアオフィス」という「ビジネスにおいて演出されたコミュニティ」。そこに入居する人々は「職場」として必然的にそこに通い、必然的に「知り合い」になる。そこに自発性はあまりない。(少なくとも僕は自発的に飛び込んだわけではない。ただ、職場がそこだっただけだ)
だけど、そこから先、知り合い以上の関係を形成するのは、どんな会話をし、どんな関係を持ち、どんな時間・空間を共にするか次第だということに気がついた。コミュニケーションが苦手な人も、得意な人も、丸ごと飲み込んで膨らんでいったそのコミュニティを目の当たりにし、その現象を心から尊いと思った。
続きの言葉
思惑がなんであれ、人と人が接する場面を多く・長く用意すること。するとそこには自発的なコミュニケーションが増え、温度が生じ、温かい場面が増えていく。そう考えると、あのお菓子のファンサイトも、あの不動産屋が開発したあの街も、とても正しく思えて、これまでの自分の陰険な見方が恥ずかしくなった。
「自走するコミュニティが豊かな街を、社会を作っていく」
今はその言葉の正しさを確信している。そして、はにふみが、そうした「人」と「コミュニティ」の接点を増やしていくようなメディアになればいいと切に願っている。
そういえば先日、シェアオフィス時代の友達から連絡が来た。
「今度、こんなコミュニティを作ろうと思っているんだけど…」「ぜひ、話を聞かせてほしい!」
さて、次の「はにふみ」の記事は、そんな友達が作った国際交流コミュニティのお話。
次回の更新も、お楽しみに。